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花火と経済と大人の話。

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ときおりお決まりのかけ声が飛び、拍手がわく。下町の歴史に詳しい元鳶職の入居者が、花火のあ
れこれを説明している。一角にはテレビも置いてあり、「こっちのほうがちょっと遅い、テレビのほうが」
「ホントだ。時差あるね。一秒ぐらいね」

 

そんな会話も聞こえてきた。私の隣で見ていた男性が、缶ビールをあおりつつ、口を開いた。「風だけでよかったよ。台風だってこっちに来なくてさ。西のほうはかわいそうだけど。何か、高知
のほうはすごいらしいな」

 

七十歳前後だろうか。歯はなく、髪を短く刈り込んでいる。首には白いタオルを巻いてグレーのT「おとといも花火があったね。足立のほうで。部屋から見えたよ。こまいかつたれ。小さくてこんな
にきれいじゃなかった」「花火、お好きなんですかL「うん、やっぱり気持ちが晴れるもんね。病気になる前、浅草で友達とアパート借りてたからね。そ
の部屋でよく見てたよ」

 

 

そのとき、浴衣姿の熟年女性がそばに来て、「須藤さん、須藤さんのおかげで初めていいところで見られました、隅田川の花火」
シャシを着ていた。と喜んだ。男性は須藤という名前らしい。女性に向かって、「ビール飲んだ?Lなどと気遣った。須藤は昭和五年生まれの東北出身。国鉄で蒸気機関車を運転していた。
心臓を取り巻く動脈の血流が悪くなる狭心症の発作を繰り返しており、一九九五年と二○○二年には、心筋梗塞も起こしている。

 

 

 

心臓弁膜症や喘息も患っていて、きぽうのいえの自分の部屋では、酸素濃縮器から細長いチューブを通して酸素を吸入する在宅酸素療法を受けていた。二○○二年十月、きぽうのいえの開設と同時に入所した。それだけに、施設長の山本雅基にとって
も思い入れが深く、山本は山谷で名高い一杯二百五十円のけんちん汁「ふる里けんちんLを半年にわたって毎朝、須藤の部屋まで届けていた。そのけんちん汁は私も飲んだことがあるが、ほかにおかず
がいらないほど具だくさんで、辛さもほどよい。

 

 

 

大切にされていたはずなのに、花火の夜からほどなくして、須藤はきぽうのいえを退去せざるを得なくなってしまう。明るくて人なつこく面倒見もいいのだが、お金にだらしなかったのだ。郷里で親戚に借金を重ねたあげく東京へ出てきて、きぼうのいえでも、同じことを繰り返してしまった。
須藤が受け取っている毎月の生活保護費から部屋代や食費などを払うと、自由になるお金は一万円ほど。それをパチンコやたばこなどに使ってしまい、ほかの入居者からだけではなく、山谷の住人からも借金した。ひとり三千円から一万円ぐらいらしいが、かなり積み重なっていたようだ。放浪癖の
ある須藤はそのまま行方をくらまし、あるとき山谷の住人が次々ときぽうのいえに現れて、「いつもここの玄関のところにいるおじさんに金貸しているのにいなくなっちゃった。返してくれ」と迫られたのである。取り立てに来た中には、やくざもいたという。

 

 

 

放浪したまま北海道まで行ったらしく、その後戻ってきたが、借金のことはあくまでとぼける。山本も、「何とか居させてあげられないか」と相当に思案したが、打てる手はなかった。
そんな将来のことを知るはずもない須藤は、あでやかな花火が打ち上がるたびに、9第一章隅田川花火と散ってなどと論評した。そして私に明るくこう語った。
「やっぱ花火ってのは、仕掛けがあるのがホントにいいのね。あんたにはわかんないだろうけど、日本一の花火ってのはね、秋田の大曲の花火が日本一なんだ。全国から花火師が何百人と集まるから」
午後八時半。花火は終了した。南風に乗って、火薬の匂いがかすかに流れてきた。

 

 

同じころ。宴の華やぎの階下では、生死の境目をさまよっている人がいた。午後十時半過ぎ、私は、山本の妻で、きぼうのいえの現場を仕切っている元看護師の美恵と一緒に○五号室の土屋照男の部屋へ向かった。扉をそっと開けると、隙間からむせ返るような鎧えた甘酸
ぱい匂いが漂ってきた。きぽうのいえを訪ねる二度目にして、旅立ちが目前の人に近づくことは想像もしていなかったので、私はやや緊張した。五畳に少し足りない部屋の照明は薄暗く、適度に空調が効いている。入り口に置かれたCDデッキ
からは心地よいリラクゼーション音楽が流れていた。

 

 

土屋は、ベッドの上に薄いふとんをかけて眠っていた。髪は短く、顔は土気色そのものである。ときおり十秒ぐらい呼吸が止まることもあるという。
「ごめんね、痛いことして」そう言いながら美恵は、ベッドサイドで右手に薄いビニールの手袋をはめて、腰をかがめると、土屋の鼻の中に管を入れていく。鼻から通すのは、口に入れると、管をかんでしまうからだ。

 

 

出会うために経済

 

美恵は少し渋い表情になった。四十代半ばの美恵は細身で、髪をポニーテールのようにまとめている。笑うとほんとうに優しそうな表情になる。冷静で、ふんわりとした声と口調で話されると、私ま
でくつろいだ気持ちになった。土屋は六十六歳。末期の肝臓がんで、もう三日ぐらい同じような容体が続いている。疾を取ると、美恵は土屋の左肩の下に手を差し入れた。そして肩を持ち上げてマッサージをしようとした。
「土屋さん、今日の花火すごかったよL花火にまつわる思い出があるのだろうか。「花火Lという声に、少し反応したかのように見えた。
「土屋さん、ここへ来てよかったねえ。友達たくさんできたしね」

 

不労所得

 

 

 

薬の個人輸入には多くのメリットがありますが、その反面いくつかの不安もついてまわりますよね。個人輸入をする場合、理由は人それぞれでしょうが、そのひとつに「日本では保険が効かず、かなり高価だから」という理由が挙げられるのではないでしょうか。

 

日本で販売はされていても、為替の影響やジェネリックなど、つまり日本で買うより輸入してしまった方が安い、という状況は往々にしてあるもの。そんなときにより安価な個人輸入で済ませてしまえればこれに勝るものはありません。

 

しかし、ここで必ずといっていいほど浮上してくるのが「海外の薬って日本のものと成分は同じなの?」という疑問です。確かに同じ製品であっても外国のものだとなんだか中身が違うんじゃないか、と思ってしまいがちですよね。

 

ですが、外国のものとはいえ、同じ名前の薬であれば成分は全く変わりません。基本的に薬というものは万国共通で、そもそもファイザーをはじめ名だたる製薬会社は外国に多くあり、つまり発祥が外国である薬はかなりの数にのぼります。ということは、成分自体は全く変わりはないということになりますよね。

 

とはいえ、全てがそうというわけではありません。というのも名前が同じジェネリック医薬品の皮をかぶった粗悪な偽物は相当数出回っているからなんです。このような薬は成分が同じとか少ない以前に全くの効果がないものまであるので非常にタチが悪いのです。薬の成分に国境はありませんが、悪質な詐欺師もどこの国にもいますので、個人輸入をする場合にはしっかりと注意してくださいね。

 

 

だからこそ安心安全で評判のいいベストケンコーで購入する必要があるのです。

 

 

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続きを読む≫ 2014/04/12 15:34:12

それから間もなく、北関東に住む姉から一通の書留が届いた。そこには、《この度は弟が色々御世話に成り有がとう御座居ました。なんと御礼を言ったらいいかわかりません。
すぐにでも行きたいきもちは有りますが足が不自由なので本当に申しわけなく思って居ります.:…私のきもちですがどうか御線香でもあげていただければ幸せですので御ねがいします:、:.》
とあり、現金五万円が添えられていた。

 

 

 

時計を見ると午後十一時を回っている。「厳粛」とも少し違う、何ものにもさえぎられない穏やか
な時間が流れていた

 

 

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土屋は翌朝九時五十分、静かに息を引き取った。葬儀は四日後の八月五日、荒川区の町屋斎場で営まれた。妹も参列したが、すでに嫁いでいることもあり、遺骨は持ち帰れなかった。代わりに遺品として、きぽうのいえで花見をしたときの写真だけ
山本がBGMの交換に来た。「P鴨謡」「優しい時間」など日本のテレビドラマの音楽も手がけたことがあるアンドレ・ギャニオンのアルバム「インプレッションズ」。ところがCDはチッチッと妙な音がするだけで回らない。「土屋さんがこの曲を拒否している。好きじゃないのかなあ。前に古賀政男の曲をかけたときには、

 

 

歌詞がわかっちゃうからって不評だった」と山本が言った。美恵が土屋の顔をタオルで拭きながら、そうか、好みじゃないんだね」「そうか、好み派
とささやいた。私が初めてきぽうのいえを訪ねたのは、土屋が亡くなる少し前、二○○四年七月半ばのことであっ

 

すると、記事を読んだ土屋の山形時代の同級生から連絡をいただいた。同級生によると、土屋の母は、東北が冷害と凶作に苦しんだ昭和九(一九三四)年ごろに、東京へ
奉公に出されたらしい。東京で結婚したものの昭和十九年ごろに夫を亡くしたようだ。終戦後、土屋と弟は、ふたりだけで母の実家に預けられた。ふたりは仲が良く、小柄で負けん気が強かった。どちらかがケンカをすると、タッグを組んで相手

 

 

 

に向かっていった。もともと手先が器用なうえ家の農作業をよく手伝っていて、学校で田植えや草刈り、畑を耕すときはとても上手だった。土屋は田植えのときに「水が多いと苗が流れる。水が少ない
と指に泥がピッタリついて苗が掴みにくいLと話していたという。この同級生が土屋に、「うまいなあ、おまえ」と感心してほめると、はにかんで「へへへ」と笑っていた。子どもながらに居候していることへの
引け目があったのだろうか、同級生たちがドジョウやメダカを捕ったり缶蹴りをしたりして遊んでい農作業に勤しんでいた。おかげで真っ黒に日焼けしていた。その一方で、小学校高学年になると、級友から小銭をせびり、ジャムパンやクリームパンなどを買
って食べていた。弁当のおかずを取ったこともある。怒ると蹴ったり噛み付いたり相手の髪を引っ張ったりと、荒っぽかった。だから友だちがほとんどいなかったという。そんな土屋が中学時代に一つ覚えのように口にしたのは、
「戦争絶対反対、西村力弥」という言葉であった。西村力弥は、地元の社会党の衆議院議員で、「戦争反対」「教え子を戦場に送るな」をキャッチフレーズにしていた。同級生はこう語った。

 

 

 

 

「土屋さんは同窓会にも一度も来たことがないんです。彼は、頑張るチャンスも、頑張る場すら平等に与えられなかったし掴めなかった。スタート台につけなかったことは、不幸だったと思います。ある意味では戦争の被害者だったのでしょう。戦争の被害者は戦場で死んだ人間や空襲で犠牲になった人間ばかりではないのです。『全部戦争でやられた』とよく悔しがってましたから。彼にとっては、戦争は一番憎むべきものだったのでしょう。ほんとうは優しい性格だったと思います」

きぽうのいえは、「生」と「死」が同じくらい色濃い空間である。入居者の来歴はさまざまであるが、今現在、行き場がないという点は共通している。

 

 

ここに来る人の中には、人生の終焉が近づいてはじめて、安らかに過ごせる「場Lを得た人もいる。アパート暮らしのときには酒に呑まれて暴れたり大声を出したり、ときに刃物を振り回したこともあったという土屋も、あるいはそのひとりかもしれない。だからこそ、病院ではなく、きぽうのいえで
逝くことを選んだのであろう。山本がときどき口にする言葉がある。「きぽうのいえでは、短いかもしれないけれども最後に与えられた時間に、それぞれの人がその人らしく生き直す『座』を獲得するお手伝いをできればと思っているんです。不器用に生きてきた人が多
く、ほんとうは優しいのに優しさを出すことを許されなかった人もいる。そういう人は優しく、また怒りっぽかった人は、怒りっぽく・今生の生を有意義に生きられることを信じています」

 

日暮里の谷中霊園の一角、見晴らしのいい高台に、旧満洲国皇帝、溥儀のいとこも納められているキリスト教教会の共同墓地がある。一年中、お供えの花が絶えることがない墓地だという。きぽうのいえで亡くなり、行くあてのない遺骨は当初は毎年、キリスト教で「死者の月」にあたる十一月に、
そこに合葬された。土屋も二○○四年十一月三日、晴れた空のもとで、牧師の祈りとともに、発明家だったらしい男性などほかの五人と一緒に送られた。そして、ゆっくりと羽を休めた。

 

地下鉄日比谷線の、地下鉄とはいえ高架になっている南千住駅を降りてすぐ、明治時代にできた貨物列車専用の「隅田川貨物駅」への引き込み線を見下ろす跨線橋を渡ると、もう山谷の入り口である。所在なげに歩いたり土方仕事で日焼けした男たちの姿がチラホラし、心なしかくすんだ建物が目立っ
てくる。大衆食堂ののれんに書かれた「おふくろの味」の文字が、逆説的に、ここが、家庭と隔絶さなみだぱしれた世界であることを物語る。歩いて三、四分で泪橋の交差点に着く。

 

 

ドャ街の拳闘クラブが舞台のボクシング漫画「あしたのジョー」では、トレーナーの丹下段平がジョーに向かって「わしとおまえとでこのなみだ橋を逆にわたり、あしたの栄光をめざして第一歩をふみだしたいと思う」と名セリフを吐いていた。江戸時代には泪橋は、地下鉄の駅近くにあった小塚原刑場に引かれる囚人たちが、最後の別れを惜しむ場所でもあった。

 

 

山谷の歴史をひもとくと、江戸時代から片隅に追いやられた者たちが集まっていたことがわかる。『山谷ドャ街’一万人の東京無宿』(神崎清、時事通信社)などによると、山谷は、江戸初期には一時的に吉原の遊郭が仮営業を営み、明治期には木賃宿が集中し、戦前にすでにヤミ労働市場を形成していた。戦後の和二十一(一九四六)年、東京都は、上野の地下道にいた浮浪者たちをトラックに積み込んで、山谷のドャ街の焼け跡につくったテント村へ運んだ。簡単に言えば〃捨てた〃ようなも

 

のだが、しだいにドャが再建されて、浮浪者たちは日雇い労働に出かけるようになる。昭和二十五年からの朝鮮戦争による特需などもあって労働者は流入し続けた。日雇い労働者たちは建設業界の最下層に位置し、もっとも搾取され保障もない使い捨ての立場にい
る。やくざや手配師が横行しても警察はきちんと取り締まらず、「ケガと弁当は自分持ち」とも言われたという。六○年安保で日本が揺れた昭和三十五年には、主に警察官の態度が原因で度重なる暴動が発生、投石や交番への焼き打ちも起きた。この年夏に通称「マンモス交番」(警視庁浅草警察署山谷

 

 

地区交番)ができている。その後もたびたび暴動が繰り返された。また一九八四年には山谷の映画をっていた監督が山谷の路上で、八六年には労働運動団「山谷争議団」のメンバーが新宿の路上で暴力団員に殺される事件も発生した。山谷は怖い。というのが一般に浸透しているイメージであろう。
しかしその一方で、独特の文化を育んできた歴史もある。昭和四十八年から小説、随筆、詩などを載せた文芸誌「なかま」(財団法人「城北労働・福祉センター」)が発行されている。年に二回、夏と冬に出る。また昭和五十一年には俳句をひねる人たちが「山谷俳句会」の活動を始めた。「流浪して母
ひなた

続きを読む≫ 2014/04/12 02:10:12

半開きの口から息がもれた。「ありがとう。ここへ来てくれてありがとう」荒い息が吐き出され、腹が大きく上下する。私は土屋のそばに寄って手を握った。朝の体温は三十
九度あったらしいが、手のひらはそれほど熱くなかった。むしろ冷たかった。美恵は「たった今、呼吸が止まってもおかしくないんです」と話していたが、握り返す力はなかったものの、しかしやわらかく、生きる力をわずかながら残していた。

 

 

「私の言うことは全部わかっているんです。ときどき、ウーンと吃るんです。うまく取れるときと取れないときがあるんですね。管を入れたときにちょうどゴロゴロって鳴ると、たくさん取れるんです

 

 

ベッドとは反対側の小さな棚に、半年前の土屋の写真が置いてあった。ふっくらしていて、とても目の前で横たわる老人と同一人物には思えなかった。写真のそばには、入居にあたって「誓いの言
葉」を書いた紙もあった。《私はきぽうのいえに入るにあたり次のことを約束します

 

一、きぽうのいえの中でも外でもいっさいお酒を飲みません
一、この約束で守れない場合はきぽうのいえを退去します》

 

 

土屋は昭和十三(一九三八)年四月八日、現在の東京都西東京市で生まれた。五人きょうだいの三番目だが、姉と妹は生後すぐに養子に出されたという。少年時代から母の故郷の山形で育ち、中学卒
業後に上京すると大工になった。酒が好きで、カップ酒を何本も一息に飲んでしまい、しかも飲むと人が変わった.二十代半ばから

 

 

明日の記憶は経済とともに

 

アルコール依存症気味になり、結婚して男の子ひとりに恵まれたが、二歳のときに養子に出し、やがて離婚もしている。住宅の請負仕事などを続けていたものの、だんだん仕事が減った。
お金がなくなると、都内に住む妹に最寄り駅から電話をかけては、「今から二十万持って来い」などと無心した。渋られると「妹のくせになんだLと毒づいたらしい・

 

 

一九九三年に初めて生活保護を受け、その後、保護の廃止と開始を繰り返している。アルコール性肝炎、狭心症、排尿障害、冑潰瘍、肝硬変、胆石症、不眠症、前立腺肥大症、脳梗塞、幻聴など、よ
く生きてきたと思うほどの疾患を抱え込んできた。さらに膝が曲がらず、歩くときには足を棒のようにして狭い歩幅でしか進めなかった。そのうえ「自殺願望」のようなものがあり、九九年には腹を自分で刺して手術を受けた。また病院の三階から窓の柵を乗り越えて飛び降りようとしたこともあった。
そんな状態で、土屋は、二○○三年九月一日にきぽうのいえにやってきた。

 

 

 

しかし、人付き合いが苦手で、なかなか周囲に心を開かない。入居して二、三カ月は他人と接しよ
でいく様子が伝わってくる。

 

 

美恵によると、半年が過ぎたころからはユーモアも出るようになった。たとえば、山谷の「いろは会商店街」にある「かつ歯科」に行くときには、「あそこに行ったら歯を抜かれちゃう。勝つ歯科に行って負ける」といってニーッと笑った。きぼうのいえの中が見えるエレベーターに乗っていた美恵
が、途中の階で、エレベーターの前に立っている土屋に気がついて、両手をウサギの耳のように頭の後ろに持っていき「ニーッ」と笑うと「’一コツ」と笑い返した。スタッフは、
「今日、土屋さんが笑った」れました》うとしなかった。美恵は、「ちょっと気に入らなかったりすると目が狂気を帯びるんです。たとえば『たばこをください』と来れて『今朝あげたばかりじゃない』と答えると、『もらってない』と睨め付けるような鋭い目になりま

 

 

きぽうのいえでは、それぞれの入居者ごとに介護ノートがあり、その日に担当した職員やボランティアが介護日誌を記録している。士屋のノートを眺めると、

 

 

そんな土屋が肝臓がんだとわかったのは、心を開きはじめて一月ほど経った二○○四年五月ごろのことであった。四月から「胃が痛い」と訴えており、冑潰瘍が疑われて胄薬を服用したが効かない。途中で別の胄薬に切り替えても効かない。そこで、往診医が採血をしようと左腕をまくったところ手が真っ黄色だった。黄疸が出ていたのである。顔も心なしか黄色くなっていた。土屋自身は「髭剃ってないからきたないんだよ」とその場をいなしたが、検査の結果、膵臓、肝臓系のがんが疑われた。

 

緊急入院となった。きぽうのいえ四階の談話室でソファに座ってたばこを吸っていた土屋に、美恵が、病名は伝えずに、『すぐに入院したほうがいいと先生がおっしゃってるから準備できる?」「最近お酒飲んでないから、肝機能が悪いわけがないL
「そうだよね。お酒飲んでないもんねえ」「行って調べてみないとわからないじゃない」土屋はニッと笑った。準備ができたころを見計らって美恵が迎えに行くと、「これ、ヤエコさんにあげる」と言うなり、インスタントコーヒー、ポリ袋いっぱいの角砂糖、クリープを持って一階上の四○二
号室へ向かおうとした。ヤエコとは喫煙仲間で馬が合った。だが、ヤエコは糖尿病で甘いものは厳禁だった。美恵が「私がわたしてあげる」と袋を手に取ろうとしたが、土屋は「自分で持って行く」と
制して部屋を出た。結果的にはヤエコがいなくて戻ってきたが、美恵は、「会いたい、という人間関

 

 

 

五月二十日、上野の総合病院に入った土屋は、すでに、肝臓、胆嚢、膵臓などががん細胞に侵され

 

これが、美恵に自分のプロフィールを語った、最初で最後の会話だった。スタッフのひとりと美恵が土屋を車椅子に乗せて病院のそばの公園を散歩したときのことである。好きなたばこを吸うかと聞いても、缶コーヒーを飲むかと聞いても、「もういらない」という答えし
か返ってこなかった。「風が気持ちいいねえ」美恵が話しかけると、ていた・肝臓で無害な物質に変えられるはずのアンモ’一アが分解されずに脳まで運ばれて肝性脳症を・も”つる画っ
起こし、意識が腺朧としていた。「お部屋から何か持ってきて欲しいものはある?」ベッドで寝ていた土屋に美恵が聞くと、いつもの無表情のままこう答えた。

 

 

「コテを持ってきてくれ」
「コテ?コテって何?」
とっさに何かわからずに聞き返すと、
「仕事で使うからコテ持ってきてくれ」
「仕事って何の仕事に?」
「大工だよ。仕事で使うから持ってきてくれ」
「大工してたの?」
と短く答えた。病室に戻り横になった。
「会いたい人はいない?」

 

七月二十三日、土屋は、本人の希望できぽうのいえへ戻ってきた。それからの一週間は、ずいぶんおだやかな日々を送っていた。帰ってきたときにはパンパンにふくらんでいたというふくらはぎから
足元にかけても、不思議なほどむくみは取れていた。隅田川花火大会の二日前に「もうちょっとこの生活してみたかったね」と美恵が言うと、「うん」とうなずいた。ある女性は「そっと触れると、フシと表情がやわらいだ。生きているんだなって思った。言葉より深いところで通じた。気の交流っていうのかな」と感じた。

 

 

そして今、土屋は、私たちの目の前のベッドで「最期のとき」を迎えようとしていた。美恵が声を歩袷たしかに、きぽうのいえの入居者たちには、家族との絆が切れてしまっている人が少なくなかった。スタッフが家族に連絡を取っても「会う気はありません」「すごく迷惑をかけられて絶縁していますから」などとすげなくされることもしばしばある。亡くなった後でさえ、「遺骨はいりません」と突き放されることが少なくなかった。「いい」。

 

 

このたった二文字の言葉に、土屋の人生が凝縮されてい「がんばったね。十分がんばったね。逝きたくなったら逝っていいからね」

 

 

一緒に部屋に来ていた看護学校の女子学生が枕元をじっと見つめている。ティッシュで鼻を押さえて涙をぬぐう。そっと、土屋の右手の指を左手で包み込むようにして握る。それから、美恵と同じように肩の下に手を入れた。彼女は前日、美恵に頼まれて、檬朧として汗をかいていた土屋の顔をお湯
で絞ったタオルで拭いたところ、「ありがとう」と感謝されて泣いてしまった。手を握って、二、三時間そばについていたが、ぽろぽろと泣けてきて仕方がなかったという。

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